祈りと願い
僕は母から。母はひいばあちゃんから聞いた話
僕の育った田舎では小さな神社が点在していて、夏は近所の友達と、よくお祭りなどに行きました。
お賽銭を入れて、カランカランとやってお参りしますよね。
ある時母とお参りをした時に、教えてもらった事があります。
神様にお参りをする時には、お願い事ではなくて感謝をするという事を教えてもらいました。
「神様にはね、お願いごとをするのではなくて、ありがとうと言うのよ」
母は自分のおばあちゃんに聞いたそうです。
それ以降は神社仏閣で手を合わせる時には感謝をするという事が、僕の習慣になったんです。いい子だったので。
時間は流れ、
高校の修学旅行の時、京都の清水寺に行ったんです。
仲間達はみんな絵馬にお願い事を書いています。
なになに大学に受かりますように!とかね。一応、田舎の進学校だったので。
僕も今日ぐらい良いよね!って気持ちになって、絵馬にお願い事を書いたんですね。
なんて書いたのかは申しませんけれども。思春期ですからね、青春まっさかりの青年が書くような事です。
そしたら、なんかいつもと違うわけですよ。絵馬に書いた瞬間から。
今でもあの違和感を覚えているからこうして記事を書いているんですけどね。
母親を裏切った違和感とは違うんですよ。もう高校生でバリバリ反抗期でしたし。そんな事じゃないんですね。
なんか、自分から運が抜けていくみたいなね。まとっていた強運がはがれていく感じでした。
これは本当にやっちまったかもなと思ったんです。第六感的な感覚です。
どうしても気になったので、その絵馬をハズして来ようと思って、次の日も清水寺にいって探したけど見つかりませんでした。
参拝者が多いお寺ですからね。
それから、あの違和感は何だったのだろうと思いまして、色んな本で調べてわかりました。
「祈り」というのは、神様の「意」に「宣」と書くそうです本来は。
その「意宣(いのり)」とは「神の意に寿(ことほ)ぐこと、神の意を祝福すること」を言います。
それは「神様の仰せに従います。神様の望むように生きていきます」という事。
それが本来の「祈り」の意味でした。
そして「願い」というのは、「ねぎらい」というのがもともとの言葉だったんです。
つまり「いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました」と言う事でした。
なるほど、それなら僕は全然見当違いなことをしたんだとわかりました。
〇〇になりますように!ってお願いしたんですから。
そもそも、神様にもっとこうしたいああしたい、
とワガママを言う場所ではなかったと気付きました。
そうではなく、神社仏閣では感謝をしてくるだけでいいんだという事を知ったんです。
確かにそうですよね。大人になってわかったんですけど、
ワガママを言うと、自分にはそれが欠けていると宣言してるようなものです。
そうすると、さらにもっと、それが欠けていると認識してしまうような現実がやって来るんです。
思考って現実化しますからね。
そして、神社仏閣はパワースポットですから、思考が現実化する速度も早いわけですよ。エネルギーが高いですからね。
そこで例えば、「幸せになりたい」なんてお願いをしたら、
「幸せになりたい」と思わざるを得ない状況を呼び込んでしまうわけです。
どんな時に幸せになりたいなんて思います?
不幸な時ですよ。
だから、不幸が物凄い速さでやってくる。
すると願い通り、
「自分は不幸だ。幸せになりたい」と強く思う出来事が降りかかってくるんですね。
この宇宙のルールというのは、バカ正直なのです。融通が聞かないんです。
だから、神社仏閣では願い事はやめた方がいいです。
それよりも現状に感謝する。
そして、どうしても「幸せになりたい」とお願い事をしたければ、
「おかげさまで全て上手く行き、物凄く幸せです。ありがとうございます」
と、過去完了形で感謝をする事です。
そうすると、そう思うような出来事がやってきますからね。
それが神社仏閣です。
ですが、別に神社仏閣にいかなくても人体はそもそもパワースポットですから、
寝る前に神様に「ありがとう」と言えばいいんですよ。神社だと思って。
僕にはそれが当り前の日常です。
神様なんていないかもしれません。たぶん、人型ではないと思いますし。
でも、本当にいたらどうしよう?とかたまに考えませんでしたか?僕は子供の頃からよく考えました。
エネルギーとしての存在だったら、ありえるでしょう?
ぶっちゃけ僕には、いる、いない、関係ありません。
ただ、そうする事でエネルギーが流れてくるって事です。
神仏に心から感謝を捧げると、得はするけど、損する事は何にもありませんよ。
ありがとうございました!